室町時代から続く歴史あるお寺。八王子市下柚木の「永林寺」

八王子市下柚木の住宅地の奥に、長い歴史を持つお寺があるのをご存じですか?
今回は「金峰山 永林寺(以下、永林寺)」をご紹介したいと思います。

住宅地の先に見えてくるお寺

南大沢駅からバスで約15分。「由木中央小学校」のバス停を降りてすぐの坂道を上がっていったところに「永林寺」があります。

お寺へ向かう道は児童の通学路にもなっているため、車での往来には注意が必要です。

歩いていく際には、バス停から続く坂道から分岐した道を進むと「豊川大尊天入口」の表示があり、その先に総門が見えてきます。

「ここは観光寺ではありませんからね」「土日にはお寺で法要が営まれることが多いので…」と住職さん。周りの方のご迷惑にならないようマナーは守ってご参拝しましょう。

「由木城」から始まる永林寺の歴史

永林寺ができる前、この場所には大石定久が住んでいた館「由木城」がありました。

大石氏とは、今の東京、埼玉、神奈川あたりを範囲とする「武蔵国」の守護代として栄えた一族です。

大石定久が滝山城へ移る際、叔父である一種長純大和尚(いっしゅちょうじゅんだいおしょう)に由木城の跡地を譲ることになり、室町時代の天文元年(1532年)、お寺として創建されました。

お寺が作られた当時は「道俊院心月閣」と呼ばれていたそうです。

大石定久が、のちに北条家に下りたことで、お寺の名前は北条氏の家紋、三鱗(みつうろこ)から「永麟寺」と改名されました。

徳川家康から建立が許された朱塗りの総門「由木の赤門」

小田原征伐で北条氏が滅亡すると、大石定久の実子たちは徳川家康に仕えました。

1951年(天正19年)、新たに由木地域の領主となった徳川家康によって、現在の「永林寺」の名前に改められたそうです。

改名の理由は、徳川家康がお寺の林の見事さに「名にしよう、永き林なり」と褒めたことから、と言われていますが、北条氏の家紋である三鱗を嫌がり「鱗」から「林」の文字に変えたとも言われています。

清浄な身と心で参道を進み、境内へ

総門をくぐると、参道の両側には十六羅漢が並んでいます。

静かな境内を歩いていると、木々が風に揺れる音が心地よく、心が洗われます。

参道の先に立派な三門が見えてきました。

三門の中に入ると、両側には仁王像が立っています。

阿形像(あぎょうぞう)

吽形像(うんぎょうぞう)

2体で“世界の始まりと終わり”を示しているとされています。

本堂に向かう最後の門とされる「中雀門」。

中雀門は勅使門(ちょくしもん)とも呼ばれ、天皇の使者(勅使)が寺院に参向するときに出入りするための門だそうです。

5つの紋の種類から垣間見える権力者との繋がり

こちらが本堂です。

永林寺の建物には、大石氏の三つ銀杏、北条氏の三つ鱗、天皇家の菊紋、五三の桐、徳川家の三つ葉葵など、5つの紋が施されているそうです。

この本堂には、五三の桐と三つ鱗がありました。

それだけ多くの権力者との繋がりがあったお寺だということが伝わってきますね。

お寺の守護神として愛知県の豊川稲荷から分霊された「豊川殿」。

三重塔。
境内にこんなに立派な建物があることに驚かされ、八王子にいることを忘れてしまうかのような景色が広がります。

由木城跡へ行ってみました

由木城跡入口から坂を上り、由木城跡へ行ってみることに。

先には墓地が広がっていて、その奥の裏山に「由木城跡」の標示が見えます。

階段を上ると少し開けた場所になっていて、由木城跡碑が立っていました。

お城の遺構は見当たりませんが、この場所に由木城があったと思うと、なんだか感慨深くなりますね。

永林寺の原点となる由木城主だった大石定久の石像もありました。
境内には、大石定久のお墓も残っています。

境内の四季折々の自然にも心が癒されます

由木城があった高台からは、都立大学方面の景色が眺めることができます。500年もの歴史の中、この場所からどんな景色を人々は見てきたのでしょうね。

境内の木や草花は丁寧に手が行き届いており、お寺を囲んでいる四季折々の自然にも心が洗われます。

自然豊かな八王子下柚木「永林寺」で歴史を感じながら心を清め、静寂な時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。

金峰山永林寺
住所:東京都八王子市下柚木4
アクセス:京王相模原線「南大沢駅」から車で10分、「由木中央小学校」バス停から徒歩3分
TEL:042-676-8410

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